小学3年生からのフォニックス英語

英語学習に「臨界期」はあるの?

英語の何が一番難しく感じるの

言語学における「臨界期」について触れてみたい。「臨界期」とは、人間の脳が学習に適した時期があり、その時期を過ぎると学習が困難になるという考え方である。認知発達全体では思春期が始まる12歳ごろまで、特に言語能力の発達については8~9歳ごろまでを指すと言われている。この考え方は「臨海節仮説」と呼ばれ、Eric Lenneberg(1967)が『言語の生物学的基礎』の中で提唱した。それでは、日本において、外国語として英語を学ぶ日本人にも「臨界期」は存在するのであろうか。私は、植村研一氏の『脳科学から見た効果的多言語習得のコツ』(認知神経科学、Vol.11 No1, 2009)の中で次のような記述と出会い、「臨界期」は存在すると認識するようになった。彼によると、「本能のみを持って生まれる新生児の大脳皮質(知能の座)の脳細胞は殆ど神経回路網を形成していない。生後の学習体験によってのみ神経回路網が完成していく。青年期の大脳皮質には140億個の脳細胞があると言われているが、あらゆる学習が可能のように、生下時には400億個もあると言われている。乳幼児期に学習体験に基づく神経回路網の基本形が完成し、その時までに使用されなかった脳細胞は喪失すると考えられており、失われた脳細胞を必要とする学習はその後不可能となる。―中略― 臨界期を過ぎると、それまで習得しなかった言語の発音の習得は不可能に近くなる。―中略― 完全なbilingualになれる言語能力習得の臨界期は5~6歳と考えられる。音楽、美術、言語、囲碁などの完全な習得の臨界期は全て幼稚園までで、それ以後の習得能力は小学校期間中に急速に低下し、中学校では手遅れになるのである。」と。そして、おわりに「電話で聞いてnativeと思われる位に母音とイントネーションをマスターする完璧なbilingualになるには5~6歳の臨界期までに学び始めるか、遅くとも小学校中学年までに習得する必要がある。しかし、日常会話をこなし、新聞やテレビが理解できる役に立つレベルの外国語の学習は何歳から始めても決して遅くはない。問題は学習の方法である。文法と直訳に拘る間違った学習法ではなく、listening practiceから入る脳の仕組みを活用する外国語の学習方法が日本にも普及することを祈っている。」と結んでいる。ちなみに植村氏は、英語の他、ドイツ語、フランス語、ロシア語など12か国語を自由に操る。秘訣は「徹底的に聞き耳から学ぶことだ」と。

さて、私が英語学習の指導対象としている児童たちは小学校中学年、前述の「臨界期」と言われる8~9歳である。命題の原因を探るために、私なりに方法論を考えてみた。原因を考える最善の策は、まず現場で指導している教師たちや学習している児童たちの声を聴いて、彼らの問題点を把握することから始めることだ。現場の声こそが原因を検証するスタートであると考える。教師たちや児童たちの声を聴くことにより、現状の問題点を認識することができれば根本的な原因に近づくことができるのではないだろか。そして、英語の言語中枢を形成すべく、児童たちに適した教材、指導法を模索していくのが最善策と考える。

私は、2020年6月より福岡市内の小学校でゲストティーチャーとして英語クラスをお手伝いして5年目に入る。私は、機会を見つけて次のような質問をよく児童たちに投げかけてきた。「英語が難しく感じる人」「英語が好きな人」「英語が嫌いな人」等など。続けて「英語の何が一番難しく感じるの」と質問すると、①「発音するのが難しい」、②「単語を覚えるのが難しい」、③「聞き取るのが難しい」、④「スペルを覚えるのが難しい」などという声が多い。なるほどごもっともである、いまだに私もそうである。これらの声は中学年たちに多く見られる。高学年たちになると、「英語は嫌いだ」、と答える児童たちの割合が増える傾向にある。中学年のころは学び始めでもあり、「英語が上手になりたい」というpositiveな児童たちが多いからであろう。一方、高学年になるとかなり好き嫌いがはっきりしており、英語嫌いの割合が増える。その主原因は上記の①から④に起因するケースが多いようだ。中学校へ進学する前に英語が嫌いになるのは一人の指導者として責任を感じる。担任教師たちの声に関しては、直接的に聞き取ることはあまりないが、かれらの様子を観察することから多くのことが分かる。中学年担当のホームルーム教師の場合、週1回45分の授業準備のための時間はあまりとれていないようである。一応、文科省からの指導書や指導案はあるが、内容は十分に消化されていないケースが多い。英語専任教師ではないので、特に発音に関して自信が持てない。授業では、パネル操作をするために児童たちとのやり取りが少なくなりがちである。これらは、あくまでも私の個人的な見解である。これら担任教師たちの問題に関しては、機会があれば授業の中でちょっとしたアドバイスをすることは時々あるが、それ以上のことをする立場ではないと私は認識している。かれらの問題は文科省や教育委員会が取り組み改善する重要な内容である。

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